PROLOGUE

川面美術研究所"創業ものがたり"

川面美術研究所

それぞれの

どのように交わって

ここに

辿り着いたのか

川面美術研究所創業に

関わった

二代 野村 芳国

野村 芳光

入江 波光

川面 稜一

四人のあゆみ。

野村 芳国

二代野村芳国のむら よしくに

都をどり
背景画の創業

二代野村芳国は、安政二年(1855)大阪の錺師の家に生まれました。
しかし父が早世したため、浮世絵師であった叔父の初代芳国(生年未詳、明治三十一年歿)に育てられることになります。
初代芳国は、歌川国芳の門人一陽亭芳信に学び、大阪で芝居絵や看板絵に携わっていたようです。

明治五年(1872)、京都祇園で「都をどり」が始まり、若き二代芳国がその背景画を担当しました。
川面美術研究所は、この時を創業と位置付けています。
二代芳国は京都寺町錦小路で独立し、やがて京都の有力な芝居絵師・浮世絵師・大夫元として知られるようになりました。

明治十八年(1885)二代芳国は二十三枚組の木版画「京坂名所図絵」を発表しました。
これは、光線画(小林清親が創始した西洋画表現を取り入れた浮世絵)の影響を受けたものと言われています。
またその頃には、明治十九年『人体道中膝栗毛』や明治二十年『日本昔噺善悪桃太郎』等の風変わりな書籍の挿絵も手掛けたようです。

野村 芳国

明治の後半、日本各地で人気となった興業の一つに、パノラマ(湾曲した壁面に実景を描いた見世物)があります。
明治二十四年(1891)新京極に開業したパノラマ館における芳国の作品は好評を博し、以後パノラマ画家としても世に知られるようになりました。

さらに明治三十年(1897)日本で初めてシネマトグラフを上映した京都の実業家稲畑勝太郎と出会ってからは、映画の興業も手がけました。

エンターテインメントにおいて多才を発揮した二代芳国は、明治三十六年(1903)四十九歳で亡くなります。
芳国の映画に対する情熱は、日本最初期の映画監督で松竹蒲田撮影所所長となった長男の野村芳亭(三代芳国)、さらに「砂の器」等の映画監督として活躍した孫の野村芳太郎へと受け継がれました。
一方、芳国の浮世絵師・芝居絵師としての仕事は、芳国の養子、野村芳光が引き継ぎました。

新京極三条下る処に於ける
戊辰革命のパノラマは
野村芳国が丹誠になる処にて
世上の好評を博したるが
芳国は尚満足せず
日々見物に紛れて
其批評を聞き
今は改正増補の時到れりとて
人物草木等を
増しもし減じもし

明治二十五年七月十六日付『日出新聞』

野村 芳光

野村芳光のむら よしみつ

浮世絵師にしてビゴーの弟子、そして舞台背景画家へ

野村芳光は、明治三年(1870)元紀州藩士の家に生まれました。
十四歳で遠縁にあたる初代芳国に就いて絵を学び、十六歳で京都の二代芳国の下に移りました。
浮世絵師としての芳光の画技の一端は、昭和五年(1930)に発表した七枚組の木版画「京洛名所」等で今も見ることができます。

明治二十年代、京都に滞在していたフランス人画家ジョルジュ・ビゴーが、京都寺町で看板絵を制作する芳国と芳光をスケッチしたことから、ビゴーと芳光の交流が始まりました。
芳光は高台寺近くのビゴーの寄宿先に通い、銅版画やデッサン等の西洋絵画技法を学んだようです。
ビゴーは芳光を気に入り、フランスへ招こうとしますが、芳光を手放したくない芳国は、芳光と長女を急いで結婚させたと伝えられています。
明治三十年代には、関西美術会(現・関西美術院)展覧会で油彩画を発表することもあったようですが、洋画家としての道に進むことはありませんでした。

芳国と芳光は二人三脚で数多くの舞台背景画やパノラマ画を手がけ、「本邦パノラマ画の鼻祖」とも称されました。
芳国没後、芳光は「都をどり」の背景画を継承し、また大阪の「浪花踊り」や川上音二郎の舞台装置・背景画も担当するなど、京都・大阪の舞台美術を数多く製作し、昭和三十三年(1958)八十九歳で亡くなりました。

芳光の活動した明治から昭和前半期は、日本の舞台美術が近代化により大きく変容した時代でもあります。
舞台背景画は誇張された様式美よりも写実的・立体的な表現が好まれ、舞台美術製作現場は様々な人材により分業化されるようになりました。
そのような中で、芳光は自ら道具帳(舞台美術の設計図)を引き、そして背景画の筆を執って、時代の要求に応えました。
今日でも川面美術研究所は野村芳光と同じように道具帳と背景画の両方を製作しています。

浮世絵師として育ち、ビゴーから西洋絵画を教わり、パノラマ画家・舞台美術家となった野村芳光。
花街舞台美術での活動が多かったためか、残念ながらその名は歴史に埋もれていますが、様々な絵画表現をものにして時代の要求に応えた芳光を、後年川面稜一は「天才的才能」と評していました。

ビゴーはこの京都で、
野村芳光という青年に画を
教えている。ビゴーに
とっては最初で最後の弟子で
ある。(略)「第一に対象を
感得すること、次に
対象からインスパイア
されて描きはじめること」
これは野村が終生覚えて
いたビゴーの教えだった。

清水勲
『明治の諷刺画家ビゴー』

入江 波光

入江波光いりえ はこう

文化財保護のための
模写の創始者

入江波光は、明治二十年(1887)京都に生まれました。
明治三十四年(1901)十四歳で森本東閣(幸野楳嶺の長男)に師事し、明治三十八年(1905)京都市立美術工芸学校(美工。現・京都市立銅駝美術工芸高等学校)を卒業、次いで明治四十四年(1911)京都市立絵画専門学校(絵専。現・京都市立芸術大学)を卒業しました。

波光の名は、近代京都を代表する日本画家の一人として知られています。
大正七年(1918)から昭和三年(1928)まで続いた国画創作協会(国展)を中心に活動し、「降魔」(1918)等の作品を発表しました。
その一方で、絵専在学中から模写に励み、大正二年(1913)絵専研究科修了後には絵専嘱託として東京美術学校(現・東京藝術大学)・東京帝室博物館(現・東京国立博物館)の古画模写に派遣される等、模写画家としても早くから認められていました。
大正七年絵専助教授に就任、さらに昭和九年(1934)絵専教授となりますが、正統的な「揚げ写し法」による現状模写にこだわり、文化財保護の観点から緻密かつ正確な模写を京都で最初に指導したと言われています。

昭和十五年(1940)から始まった国宝法隆寺金堂壁画模写事業では、川面稜一ら絵専の教え子を伴って参加し、並々ならぬ意欲で取り組みました。
波光は壁画模写の完成を見ることなく昭和二十三年(1948)に亡くなりますが、教え子たちが壁画の模写を完成させ、さらに彼らが中心となって戦後の文化財模写事業を牽引しました。
国宝法隆寺金堂壁画模写事業は、絵師個人の学習手段であった伝統的な模写から、文化財の記録・普及のために複数の画家が協力して制作する近代的な模写への転機でもありました。
この模写の共同性は、川面稜一の始めた元離宮二条城二之丸御殿障壁画模写事業に継承されています。

また波光は昭和十六年京都市より二条城顧問に嘱託され、障壁画の保存や疎開に尽力しました。
二条城そして文化財保存と川面美術研究所の繋がりは、入江波光に端を発しています。

一切自分を捨てゝ原画を描いた
作者の気持になり切つてしまつてやつてこそ、
ほんとの意味の模写は
出来ると言わねばなるまい。
作意が何処にあるか、何処に表現の
主眼が置かれてゐるか、
どんな処に力を注いでゐるか、
そうした事を考へながら凝ツと
見詰めてゐると、
絵に現はれてゐる
作者の気持が彷彿として
見えて来る様な気がする。
夫れを出来る丈け如実に
再現するのが模写の目的であり
生命であると言はねばなるまい。
入江 波光 「弘安本『北野縁起』摸写に就ての雑感」

川面 稜一

川面稜一

かわも りょういち

舞台美術・模写
建造物彩色の第一人者

川面稜一は、大正三年(1914)大阪に生まれ、少年期より継父野村芳光の下で「都をどり」等の舞台背景画製作を手伝いながら育ちました。
芳光の没後、家業として「都をどり」背景画製作を継いでからは、横長の舞台背景画面を絵巻に見立てて古典的世界を表出するという「都をどり」の美術様式を完成させました。今日の都をどりにおいても、その仕事は息づいています。
さらに「都をどり」だけではなく、宮川町の「京おどり」、祇園東の「祇園をどり」等京都花街の舞台背景画を次々と手掛けました。
平成五年(1993)には、長年の舞台背景画の功績が認められ、日本舞台美術家協会より第 21 回伊藤熹朔賞特別賞を授与されました。

京都市立絵画専門学校では入江波光に師事し、卒業後国宝法隆寺金堂壁画模写事業に参加しました。
波光の娘と結婚した川面稜一は、義父波光の遺志を継ぎ、戦後も文化財保護委員会(現・文化庁)美術工芸課の委嘱により模写五ヶ寺計画を立案・実行するなど、数多くの文化財の模写に取り組みました。
昭和四十七年(1972)からは千点を超える元離宮二条城二之丸御殿障壁画の模写に着手。
文化財の保存と活用を両立させる「古色復元模写」という新たな手法を確立しました。

さらに川面稜一は、日本で初めて文化財建造物の修理に本格的に関わった画家の一人でもあります。
文化財建造物の彩色塗装は、かつて雑工事の一つとして扱われ、十分な調査や修理がなされていませんでした。
川面稜一は模写で培った伝統技法に関する知識や経験を基に社寺の彩色塗装を復元し、「建造物彩色」という新たな分野を開拓しました。
これら一連の実績は、昭和五十九年(1984)京都府文化財保護基金(現・京都文化財団)より文化功労賞授与、昭和六十一年内閣総理大臣より木杯授与、平成九年(1997)文部大臣より選定保存技術(建造物彩色)保持者認定、平成十二年(2000)日本建築学会より日本建築学会文化賞授与等の形で、広く認められました。

昭和五十九年(1984)有限会社川面美術研究所を設立。
工房組織を整えると、新築堂舎の荘厳等にも活動領域を広げました。
平成十二年(2000)に代表取締役を娘の荒木かおりに譲り、晩年は会長として後進の育成に努めました。
平成十七年(2005)九十一歳で亡くなりましたが、野村芳光から受け継いだ京都花街舞台背景画制作、入江波光から受け継いだ文化財模写、そして自ら切り開いた建造物彩色の各分野で第一人者となるなど、絵筆を極めた生涯だったと言えます。

その時代の色を復原するということは、時代の空気を再現することです。
このためには私は所員達にいつも、
前後左右右顧左眄(うこさべん)で物事を見よと申しております。
時代背景、地域性をあちらこちら見て回るということです。川面 稜一 (日本建築学会文化賞受賞の言葉)