川面美術研究所からのお知らせ
毎日新聞連載「心と技と」建造物装飾 川面美術研究所-11
見えぬ色 解き明かす
川面美術研究所(右京区鳴滝本町)が、障壁画模写とともに、いや、ひょっとするとそれ以上に光彩を放っているのが建造物彩色だろう。文化財建築の彩色部分の塗り替え、塗り直しという世界は、研究所の創設者、川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)によって道が開かれた、といっても過言ではないからだ。
文化財建築の保存修理の際、可能な限り創建当初の姿に戻すというルールが確立するのは1950(昭和25)年の文化財保護法制定以降である。しかし、彩色分野は遅れ、府文化財保護課によると、重要性が見直されるのは昭和40年代に入ってからという。
そんなことはない。日光東照宮を見てくれ。あそこは大昔から、いつもきれいに整備されている……とおっしゃるかも知れないが、日光は別格。創建以来、幕府が手厚く保護し、常駐する職人集団によって、たえず最高の技術で修理が行われてきたからだ。
「向こうは、彩色の歴史が綿々と続いている。図面もしっかり残っています。ただ、手法が京都とは全然違うんです。日光はまず、漆で真っ黒に地固めする。そこに胡粉(ごふん)を塗って白に戻してから、色をつけていきます。当然、厚塗りです。父は『京都は薄化粧やからな』と笑ってましたね」
川面の次女で、研究所代表の荒木かおり(49)の話である。手法が違うため、川面が建造物彩色の選定保存技術保持者だったように、日光社寺文化財保存会も選定保存技術の団体認定を受けている。ここでは、1業種1人(団体)の原則があてはまらないのだ。
さて、川面が切り開いた京都方式の彩色である。2002年、屋根の修理に伴い彩色復元をした洛北の名刹(めいさつ)・大徳寺の唐門(国宝)を例に、荒木の説明を聞いた。
大徳寺の唐門は、聚楽第の遺構を移築したもの。荒木によると、何回か移築されているにもかかわらず、彩色部分には一切修理の跡が見られなかったという。従って、動物や花、鳳凰、雲や波など一面に施された彫刻の色は落ち、創建時の姿は想像がつかなかった。
そこで「設計図」作りである。まず、彫刻を一つずつ図面に描き写す。一方で、彫刻のほこりを払うと、くぼみなどに色が残っていることがある。これをヒントに図面に塗り絵をしていく。まったく色が残っていない時は、風食痕や部材の酸化の具合、さらには化学的調査も加えて顔料を特定、図面を完成させる。
とはいえ、簡単に特定できるわけではない。
「コイの彫刻に紫色の断片が残っていたんです。紫というのは普通、混色しないと作れないのですが、それだと何百年も持たないはずです。これは何だ、ということで成分を分析したら、鉄分が出てきました。鉄分を含む顔料なら、岩絵の具ではなく、土系のベンガラ。ベンガラ格子のベンガラです。そこでベンガラ屋さんに聞くと、赤いベンガラも焼くと紫に近い色になるというんです。これがわかった時はうれしかったですね」
こんな調子である。こうして各パーツの設計図が完成すると、全体の復元予想図をつくり、文化庁のOKを待って、彫刻に色を塗っていく。荒木によると、設計図作りが全体の70%。大徳寺唐門の場合も、3年の作業のうち、設計図に2年半もかかったとか。
「父の生前は、父が権威でしたが、今は文化庁や府の担当者も勉強してますからね。我々もうかうかしていられません。結構激しく議論しながら、やっているんです」
(毎週木曜日掲載。次回は15日。文中敬称略)【池谷洋二】
大徳寺の唐門
豊臣秀吉が天正15(1587)年に建造した聚楽第は、後に養子・秀次の居宅となったが、秀次謀反の疑いで断罪した際に破壊した。唐門だけは破壊を免れ、最終的に大徳寺に移築された。全体を覆う華麗な彫刻が特徴で、桃山建築の代表とされる。日が暮れるまで見飽きないことから「日暮門」ともいう。桧皮(ひわだ)ぶきの4脚門。
毎日新聞 平成19年3月8日掲載