川面美術研究所からのお知らせ
毎日新聞連載「心と技と」建造物装飾 川面美術研究所-8
文化財保護原点に
春、秋の観光シーズンとはうって変わり、この時期の二条城(中京区二条城町)は、京の底冷えに沈み込んだように、静かで穏やかな素顔を見せてくれる。
東大手門から入場して左へ行けば唐門(からもん)。二の丸御殿の入り口である。逆に右に道をとれば、無料の休憩所、さらに奥に宝物を納めた近代的な収蔵館がある。その手前にある収蔵庫(旧)の一室に、1972(昭和47)年から30年以上にわたり二の丸御殿の障壁画1035面の模写作業を進める川面美術研究所(右京区鳴滝本町)の模写室が設けられている。
訪れた時、室内では研究所の主任画家、谷井俊英(57)と女性スタッフが作業中だった。横長の部屋に進行途中の模写絵が並び、見本用の襖(ふすま)絵の本物も1枚立てかけてある。振り向くと、後ろの壁に白い紙を張り合わせて作った巨大な「狩野派の系図」があった。
「狩野派といっても、人によって画風が違います。その違いがわからないと模写なんてできないんで、頭にたたきこんでおかないと……」と、谷井は言う。
二の丸御殿の障壁画は、狩野探幽を中心にした江戸初期の狩野派絵師集団の作である。谷井によると、模写対象の1035面に天井画などを加えた3000面以上の絵を、当時わずか1年ほどで仕上げている、という。
「もちろん、系図に出てくる師匠格の人だけでなく、大勢の絵師を使ってやったことでしょう。だから、棟によって、また部屋によっても作風が違うわけです」
30年も模写をしていると、古文書を見なくても、絵だけで誰の作品かわかるそうだ。
さらに、取って置きの面白い話を聞かせてもらった。将軍の居間兼寝室だった白書院。観光客に親しみやすいように、将軍の人形が展示されているが、人形の背面の床の間に狩野興以、または狩野長信の作とされる壁一面の山水画がある。その絵の左下隅に、小舟をこぐ人が小さく描かれている。
「小舟の絵は、明らかにほかとタッチが違います。紙を上張りした跡もあるんです。後世、誰かが加筆したわけですが、狩野派の絵師にしては稚拙なので、大正天皇の落書きでは? なんて冗談を言い合っているんですよ」
二条城は1884(明治17)年、宮内庁所管の二条離宮となり、1915(大正4)年には、大正天皇即位の大典もここで行われている。当然、大正天皇も白書院に滞在していることから、こんな“珍説”が生まれたようだ。
「私たちの模写では、この舟は描きません。せっかく再現するのですから、後世に付け加えられたものは除き、本来のものに帰してやる。文化財保護の原点からスタートしているわけです。そこが機械と違うところですね。デジタル複写など、どんなに技術が進んでも、機械にはできない人間ならではの技だと思います」
昨年末までに完成した模写は600面を超えた。遠侍(とおざむらい)、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟からなる二の丸御殿のうち、黒書院と大広間はすでに模写絵に入れ替えられ、本物は収蔵館に納められた。式台も絵はすべて出来上がって入れ替え待ち、白書院は部分的に入れ替えが始まっている。
古色復元模写とは、どのように行われるのか。次回はいよいよ、その手法をご紹介したい。
(毎週木曜日掲載。次回は22日。文中敬称略)【池谷洋二】
狩野派
室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで、画壇に君臨した画家集団。室町幕府の御用絵師を務めた狩野正信を始祖とし、伝統的な水墨画に華麗な色彩を取り入れた独特な様式を創造した。代表的な絵師としては、正信の子の元信、元信の孫の永徳、永徳の孫の探幽などがいる。
毎日新聞 平成19年2月15日掲載