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川面美術研究所からのお知らせ

毎日新聞連載「心と技と」建造物装飾 川面美術研究所-5

毎日新聞連載「心と技と」 建造物装飾 川面美術研究所

 

職人 同時に芸術家

 

 昭和40年代に入ると、文化財建造物の彩色修理にも、一定のルールが定まった。一言で言えば、可能な限り創建当初の姿に戻すということである。その時々の事情で、塗り替えられているものは、出来る限り元に戻す。これ以上はく落したら、色を失う恐れがあるものは、補色するか、上塗りする。部分的に部材を新調せざるを得ないものは、全体の調和を考えながら新材に色をつける。
川面美術研究所(右京区鳴滝本町)の創設者、川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)が1968(昭和43)年、六波羅密寺本堂(重文)の向拝(こうはい)の彩色復元を依頼されたころは、まさにそのルールが確立されつつあった時期。理屈はできても、技術についての教科書はなかった。

 川面の二女で研究所の後継者、荒木かおり(48)によると、画家にとってキャンバスが紙と木、それも老朽化した立体構造物が相手では、技術的にまったく異なるものになるという。
「色を定着させるためには、顔料ににかわを加えるわけですが、和紙と木では配合が違う。また、同じ種類の木でも水分をどれほど含んでいるかによって違います。1本の柱でも雨ざらしになっている部分とそうでないころは、同じではないんです。普通の絵だと思ったら、まったく歯が立ちません」
含水機といって、肌年齢を調べるそれのように、木に押し当てて水分を測る機械を買ってきたり、懐中電灯(後にコールドライトを使うようになる)を横から当てて木の表面の状態や上塗りしてあるか調べたり……まさに、試行錯誤だったようだ。

 六波羅密寺に続いて翌69年に手がけた、石清水八幡宮の本殿(重文)などの彫刻彩色。それから30数年たって色落ちが進み、昨年10月から、再び川面美術研究所が同じ彩色を担当している。新たな道を切り開いていたころの父の仕事を、自分の目でたどることになった荒木は言う。
「非常に絵画的な表現をしているんですね。彫刻だから、べたべた塗っても立体は立体なのに、いつも平面で仕事をしている絵描きの本能というか、デリケートな色の強弱をつけてある。また、彫刻のトラが、ただのトラじゃない。ちゃんと狩野派のトラになっているんです。筆先を追っていると、胸にくるものがあります」
以来、川面は二条城唐門(重文)の復元彩色、北野天満宮本殿(国宝)の復元彩色……と「数え切れないほど」(荒木の話)の建造物彩色を手がけ、97年に国の選定保存技術者に認定されている。

 一方、原点である壁画模写も並行して続け、72年からスタートしたもう一つのライフワーク、二条城二の丸御殿の1,000点を超える障壁画模写は、川面が亡くなった今も工房の重要な仕事になっているのだ。
川面稜一の足跡を駆け足で追ってみて、建造物装飾という仕事は、芸術家の範ちゅうなのか職人のそれか、素朴な疑問が残った。工房スタッフの1人、出口瑞(48)が話してくれた次の言葉が、ひょっとすると、謎の扉を開く鍵になるかも知れない。
「先生(川面稜一)は、私たちを指導してくださる時、ある時は『我々は職人やさかいな』とおっしゃるし、またある時は『職人やないさかいな』とおっしゃるんです。矛盾というか、相反する面をいつもお持ちでした」

 次回からは、扉を開けて、建造物装飾の心と技に迫ってみたい。
毎週木曜日掲載。次回は2月1日。文中敬称略)【池谷洋二】

 

コールドライト
 光源とレンズの先が離れているため、熱を持たないライト。本来は顕微鏡写真撮影や医療機器用だが、川面稜一は風化した彩色表面の図柄識別に使った。光源から光ファイバーで光を送ると、均一に照らされ、顔料の痕跡部分に横から当てれば、風食差でできたわずかな段差が浮き上がる。

状態によっては、2度塗り、3度塗りをしてあっても、元の図柄が分かることもあるという。

毎日新聞 平成19年1月25日掲載

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