川面美術研究所からのお知らせ
毎日新聞連載「心と技と」建造物装飾 川面美術研究所-2
歩く「文化財保存」
右京区鳴滝本町の川面美術研究所・福王子アトリエの3階に1枚の写真パネルが飾ってある。研究所の創設者、川面稜一を囲んで若いスタッフたちが笑顔で写っているのだが、撮影されたのは、昨年の正月。川面が1月9日に91歳で亡くなる、わずか数日前だったという。
「父は本当に穏やかな人で、大きな声を出すのを見たことがありません。亡くなった時も、前の日まで元気だったのに、ポックリという感じで、父らしい最期だったと思います」
川面の二女で、現在の研究所を率いる荒木かおり(48)の話である。
川面稜一。画家にして建造物彩色の選定保存技術保持者。川面の歩んできた道を振り返ることが、そのまま文化財保存のための模写絵画や建造物彩色の歴史をたどることになる。
川面稜一は、1914(大正3)年、大阪市で生まれた。小学生の時に母が再婚、その相手が京都で「都をどり」の舞台美術を担当していた画家、野村芳光だった。
生前、川面はこの義父のことを「浮世絵画家の末裔」と紹介しているが、木版画家として名をなしただけでなく、フランス人画家、ジョルジュ・ビゴーに洋画を学び、舞台美術に従来の書き割りとは違った洋風の味付けを持ち込んだ人である。
義父の影響で京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)に入学した川面は、ここで恩師、入江波光と出会ったことが、その後の一生を決めることになった。
40(昭和15)年、学校を卒業してから絵の勉強のかたわら、義父の仕事を手伝っていた川面に、入江から声がかかる。
「法隆寺の壁画の模写をすることになったんだが、一緒に来ないか」
奈良・法隆寺では当時、「昭和の大修理」と呼ばれる解体修理が行われており、併せて、仏教絵画屈指の名作とされながら傷みが進んでいた金堂壁画を模写、複製することになった。その事業に入江が参加することになり、助手の1人として川面が呼ばれたのだった。
絵画の模写・模造は、洋の東西を問わず、昔から盛んに行われている。贋作づくりという意味ではなく、画家を目指す者にとって、先人の筆致を写すことは自分の線を創造する上で欠かせない勉強であり、修業なのだ。
ところが、法隆寺の壁画模写は意味が違った。画家の勉強ではなく、文化財保護の観点で行われた最初の本格的な模写だったのである。
入江の下で壁画の模写を始めた川面は、応招のためいったん現場を離れるが、47年に復員すると再び法隆寺へ。この時の様子を、後年、日本建築学会文化賞を受賞した際に記した自身の文章を抜粋して紹介しよう。
「東京班、京都班に分かれ、東京班では安田靫彦先生を筆頭とするグループ、京都班は入江波光先生のグループでした。京都班は便利堂のコロタイプ印刷を下敷きに薄彩色で、東京班は白土の土壁の質感を出すために、印刷の上に胡粉(貝殻で作られる白色の粉)を引いて比較的厚彩色で仕上げました。私は入江班の中でも最年少でしたので、ひたすら壁のしみを写しておりました」
余談だが、複写のための照明には、明るくて熱を持たない新照明として、潜水艦用に開発された東芝製蛍光灯が採用された。模写が始まった40年8月27日、20㍗の昼光色ランプ136灯が法隆寺に持ち込まれている。
これが日本で蛍光灯が実用に使われた最初である。
(次回は07年1月11日。文中敬称略)【池谷洋二】
コロタイプ印刷
約150年前、フランスで原理が発明され、ドイツ人、ヨーゼフ・アルベルトが実用化した印刷法。リトグラフなどの石版印刷と同様な平版による印刷だが、原版に感光性ゼラチンを塗ったガラス板を使うのが特徴。オフセット印刷のように拡大すると粒々に見える網点のない連続階調のため、滑らかで深みのある質感が表現できる。
毎日新聞 平成18年12月21日掲載